長野県私立幼稚園史概要
県内における幼稚園の初期から昭和45年頃までの概要
1 初期の幼稚園
明治20年4月1日 開智学校附属幼稚園 (現在の松本市立松本幼稚園) と して開設されたのが、 本県幼稚園のさ きがけ と いわれている、 県立の幼稚園が設立されたのは明治23年10月1日長野県尋常師範学校附属小学校幼稚園が初めであっ た。 こ の長野県幼稚園は明治26年の通常県会で厳しい論議に さ ら さ れ (明治26年長野県通常県会議事日誌) 県の参事官櫻井鉄太郎は就学前教育がいかに大切かその利益を説いているが14対19で廃止が決定されてしまった。
 カナダ婦人ミッション宣教師によって明治31年11月長野市に旭幼稚園が開設された(昭和13年旭幼稚園創立40週年記念誌)当時の政治がからんで複雑な一幕があったが、明治36年2月18日正式に認可された。以後上田市に梅花幼稚園が明治33年1O月設立(明治35年7月14日認可)された。また、小諸市に小諸幼稚園(明治41年4月17日認可)等キリスト系幼稚園が開設された。
 長野県高等女学校附属幼稚園(長野西高幼稚園)は明治39年幼児保育所として開設、明治40年7月私立幼稚園に変更申請をしたが、校舎狭隘のため認可されず、大正4年「保育実習として幼稚園部の設置あり」と記録されているが、終戦後の昭和25年11月3日になって「長野西高幼稚園」となる。(小子化の進行に伴い園児が減少し平成10年3月31日廃園)
2 仏教系の幼稚園
大正期から昭和期にかけて仏教系幼稚園が開設されたが、キリスト系幼稚園のように特定の宗派の組織的な活動としたものではなかった、幼児教育に見識を持った先覚者の創立によるものと、寺院が連合して幼稚園を開設したもの等があり、大正3年に慈光幼稚園(飯田市)飯田仏教幼稚園(大正8年)、上高井幼稚園(大正12年)、伊那幼稚園(大正14年)、光明幼稚園(昭和8年松本市)等が設置された。また、個人経営の幼稚園は木曽幼稚園(大正11年)のほか大正15午前後に設立されている。昭和2年には豊科、軽井沢など5園が設立された。
3 戦時下の幼稚園
 キリスト系の幼稚園は設置者も園長も外人宣教師が占めていたが、日中戦争以後国際情勢の変化する中で世情を考慮し、外人達が身を引く姿勢になってきた。幼稚園の経営も理事会方式に切換られた。日本人に経営が移された時点で、保育時間の延長が行われた。上田では昭和15年10月外人園長排斥運動が起こり(北信毎日新聞)、昭和18年頃には戦局も厳しく稲荷山、みすず幼稚園等が廃園している。戦時下では多くの幼稚園が保育園に切換わったが敗戦後は幼稚園の名称に復帰している。
4 戦後の幼稚園
 県下の幼稚園は戦争の打撃が大きく戦後の経営は困難を極めた。体制を立てなおし教育の仕事に取り組むまでには、かなりの日時と努力を要した。次第に各園が体制をととのえてくると、県全体の連絡協調を望んできた。
 そして終戦の翌年昭和21年4月6日「長野県幼稚園連盟」が誕生した。理事長には三和義一が挙げられた。加盟園は当初13園であった、後に連盟はその公共的な責任から充実強化を図るため、昭和39年11月10日の臨時総会で解散を決定し「社団法人長野県私立幼稚園連合会」(昭和40年3月13日登記)として発足した。
 理事長 三和義一 副理事長 金子英昭
5 補助金獲得運動のため学校法人化
経営困難の中で施設設備の充実、教職員の待遇改善が迫られているとき、助成または、融資を受ける以外に道はなかった。しかし私幼の設置者は法のたてまえからして、公共性を保つためにも原則として、学校法人であることが望ましいとされていた。補助金等獲得運動には学校法人でない設置者が相当数加わっている連合会では適当でないとのことから、これに応えていくには、学校法人となって受け入れるより以外になかった。これらの経過から学校法人を会員とする「社団法人長野県幼稚園振興協会」が昭和42年8月2日別個に設立された(昭和42年8月17日登記)。
               理事長 荒井太一  副理事長 宮原繁広、市川文夫
 これによって学校法人立幼稚園に対する助成の道が開かれ、昭和43年度から県は施設設備拡充のための補助並びに資金の貸付等を行うようになった。社団法人長野県私立幼稚園連合会は昭和42年5月10日の総会で新たに、理事長金子英昭、副理事長宮原繁広となって新執行部のもとに前進することになった。一方連合会は日私幼が私幼振興方策の一つとして提起した、父兄の教育費が国公立幼稚園に比し、私幼は非常に大きな差がある。対象が教育を享受するものであるから、設置者のいかんによって差のないようにと、父兄負担の格差是正のため様々な運動を展開した。
 学校法人でない設置者が幼稚園教育を行うには、それなりの信念があり理由もあったが、学校法人団体が出来たことで更に事情は複雑になってきた。末端では二つの団体があることに疑問をもつようになった。この危機を乗り切り教育の使命のために、一致結束することが出来るならば、今後生じてくる問題にも立ち向っていくことが出来るであろう。
 長野県幼稚園振興協会がつくられ次いで、長野県私立学校職員退職金社団(昭和42年8月21日認可)が設立された、また、県下の私学全体が強力に運動を展開していくため長野県私学団体連合協議会(理事長高松了秀)が昭和45年に結成されて人件費等助成についての陳情運動が起こされた。これらの動きには目を見張るものがあるが、経営は教育のためにあり、助成を求める必要はあるが、私幼はその教育について自信と責任を自覚すべきであろう。補助を受けることはやむを得ないとしても、私学の特色を失うことのないよう教育について、主体性と創造性を発揮していくことが私学の使命であろう。